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恋愛と哲学と青春の初体験:般若心経

以下は2015年に私が独自に翻訳した般若心経です。

正確な訳ではなく、自分なりに筋が通るようにと考えて、訳した意訳になります。

空とは何なのか、空で苦を乗り越えるとはどういった理屈なのか、空だから最高の智慧である般若心経をえることができるとはどう言うことなのか?

毎朝、礼儀が悪いけども、トイレに座って、電動歯磨きしながら、どういう意味なのか?を考え続けて出した、答えです。

「 完成された智慧の真髄を説いた教え
 智慧をもって遍く生きとし生けるものの因縁を観、救う働きが自在である菩薩様が、彼岸に至る智慧を行じておられた時、
 五蘊(色:肉体や物質。受:感受されたもの。想:表象されたもの。行:意志。識:認識)は
全て『空』(実体がなく、我が無いこと)であると、智慧に照らし合わせ観て、悟られた。
 そうすることで、一切の苦厄を、乗り越えた。
 舎利子よ
 色(物質的存在や現象)は、空(実体がないこと)と異ならない。
したがって、実体がないこととは、物質的存在や現象があることとも、異ならない。
 色は直ちに空であり、空はすなわち色である。
(量子において粒子のふるまいと波動の振る舞いが交互にみえられるように、ソシュール記号論において単語一つひとつの中身に実体はなく、他の単語との差異においてのみ、意味を反復するように)
続く受想行識も各々またかくの如く空である。
 舎利子よ
 因果縁起によって現象が成り立っているという、法則は、それが経験則(色受想行識したもの)から生成されたものだから、やはり、実体がないことになる。
 だから、空の境地から説明すれば、経験則として新しい法則がブレイクスルーして生まれることや、パラダイム転換して滅することもなく、主観的なきれいや汚いも、客観的な増加や減少もなくなる。
 段階を経るようにして、物質から感覚器、感覚と自我から形成される意識やその奥の前意識やさらにその奥の無意識の混乱や抑圧や抑えられない衝動のような、煩悩の根本にも実体はないことになる。
 自と他の我がなく、区別もないことから、老いることや死ぬことの苦しみもなくなる。
 したがって、苦しみから解脱するための方法である四諦(苦を分類し、苦のケースを集めて帰納し、苦の因果を滅し、解決する方法を演繹して実践する道)を行う必要もなくなる。
 だから、その分別からの智慧も必要なく、そこから得られる悟りも必要ではない。
 自我から離れ、大我の内に自我をおさめることができ、菩提(完全なる知)を求め、生きとし生けるものを救済しようとの志を持つ薩埵は、すでに完成された無分別の智慧に依るが故に、心にひっかかり妨げるものはなく、心にとどこうりやこだわりが無いが故に、執着がなく、そこから生じる恐怖も無くなる。
 全ての顚倒夢想から離れ一切の煩悩が滅しつくされた涅槃の境地にたどりつく。
 過去現在未来に出現する仏たちもこの分別による智慧ではなく、すでに完成された無分別の智慧によってこの上なく、正しく等しく目覚めることのできる悟りを得ることができたのだ。
 故にして知るべし、般若波羅蜜多には不思議な功徳がそなわっている。
 さあ唱えよ。
『ガーテー ガーテー パーラーガーテー パーラーソーガーテー  ボディスヴァハー』
(越えよ、越えて行け、さらに越えよ、さらにさらに越えて行け、悟りあれ幸いあれ)
 これが般若(智慧)の心経(核心の教え)だ 」
(未熟な意訳です2015笠松

最初の空、我とは偶然に集約されただけの存在で、そこに執着することには意味がなく、むしろ苦をつくるだけだとする=最初の空を読み解くことができれば、後は、するすると訳が展開できました。

皆様もどうかご理解していただくとありがたく思います。

 

今日はここまで、

最後までお読みいただきありがとうございます。次回は私が実践している老人介護における哲学を展開したいと思います。

恋愛と哲学と青春の初体験:海外研修

今回は海外研修で学んだ北欧の生活を描いてみたい。

私の海外研修のレポートの書き出しはこうだ。

「1997年4月5日から7月22日まで旅を共にした「地球の歩き方」27北欧(ダイヤモンド社)の表紙にこうある

「氷河を越え、群島を縫い、湖を渡ろう、太古から変わらない自然のひろがる、サンタさんとヴァイキングのふるさと、極光(オーロラ)きらめく水と緑の国々へ」と、

3か月半前はいざしらず、今、こうして読み返してみると、ひとつひとつの言葉が痛いほどのイメージを持ち、目の前に展開する。

「いちご物語」(大島弓子著)のラップランド、ヴァイキングのルーン文字、古ノルド語「神の牧場」=オスロー。

すでにファンタジーの世界で体験していたそれらの事柄が、生きた現実として、私の身の周りに存在していた。」

176万円財団より研修費をもらい、自己資金11万円を合わせてデンマークスウェーデンフィンランドをまわった。

最初の二週間はデンマークコヘンハーゲンでの集団研修。あとの3か月は個人で計画した、個人研修だった。私にははじめての海外であり、全くの独りぼっちだった。

おもちゃのヌンチャクを持って行って、空港で止められたり、貸してもらった自転車のサドルが高すぎて、乗ったはいいものの、ペダルに脚が届かず、職員に笑われたり、海外での桜に興奮したり、ほぼ白夜のため、24時前後に現れる月に感動したり、そんなエピソードは横において、結論から言うと、死生観の違いその根本原因をつきとめることは出来なかった。

フィンランドツルクのチャプランであるレッパレンは私が死に関心があると説明すると、葬儀や骨壺、葬儀で着用する衣装やその意味、複数の墓場まで案内してくれた。しかし、私が死を受け止める違いを知りたいと説明しても誰も理解してくれなかった。

彼の親類の墓には墓石がなかった。

スウェーデン、では国の運営するコンピューター検索の施設に案内してもらい、点滴をウィンドウズ95で調べたが、ほとんどヒットしなかった。半日いても私の英語力では検索できなかった。

スェーデンで親しくなったターミナルケアをしている訪問看護のおばちゃんたちに点滴をしている病院を見せてほしいと言っても、わからないと言われた。ドア越しに一件だけ点滴の姿を見たことがあるが、緊急時の対応だったのかもしれない。

同じスェーデンでは牛の解体を見せてもらった。

脂で切れなくなるのか何本ものナイフをとっかえひっかえしながら、部位に分けていた。

彼らは狩りにも出かけていて、猟銃や猟犬も飼っていた。

北欧はキリスト教の影響がそれほどつよくはないらしい。自分たちは無宗教だと平気で語っていた。

私は死生観の違いを文化の根底の神話か何かに見いだせるのではないかと考えたが、如何せん、そこまで深く掘れるほど文化に語学に長けているわけではなく、あきらめた。

今更ながら思うには、神との契約ではないけども、やはり現在の生き方暮らし方そのものの、徹底した個人重視がその根底にあるのかもしれない。死を自分自身のものとして受け入れることを社会が共有しているのだ。

始めの二週間の共同研修の中で、デンマークの幼児施設を訪ねたことがあった。

「意思表示をちゃんとできる子供に、他とも関わりを持ちつつ、自立した子供に」が私達の保育の目標ですと語られた。

朝幼児たちが円座になって、その日一日の自分の予定を発表する。その内容に、周りの幼児たちが賛否を交えて議論し、自己責任の範囲で行える予定に修正するらしい。

なんと素晴らしい、なんと厳しい自己表出のくんれんだろうか。

だから、彼らは、日本人は判断ができないおこちゃまだと揶揄する。

そのおこちゃまでさえ、通いの施設でそこまで、自己を説明する訓練を受けている。

コンビニ弁当はない。夫が食事を作ることも珍しくはない。

そう言った下地と民主主義的な政治運営があって、自己の死を医療従事者にゆだねることなく、自分で引き受けることができているんじゃないだろうかと思う。

 

今回はここまで、次回は哲学の考えを記載出来たらと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

恋愛と哲学と青春の初体験:死生観

兄の死の続きに、最近まで、私のテーマだった死生観について書いてみたい。

学生依頼。私には癖になった思考方法があって、何かの大きなテーマを決めてそのテーマに沿って謎を自分にとっての疑問を埋めて行くことにしている。

まずはじめはリアリティーだった。現実とは何なのか?そのころ私は、現実がリアルではなくて、なんだか一枚ベールがかかったように、生の感覚ではなかった。

今思えば、ぷー太郎生活が長くて、昼夜逆転していただけなのかもしれない。

バーチャルリアリチィーなどが出てきて、私の発言が世間に理解しやすくなったので、次は、究極のリアリチィーとは何だろうと考えたときに、死が浮かんできた。

生きとし生けるもの全てに平等に与えられる経験、しかも、予測できるが、決して避けることはできない現実それが死だ。

当時特別養護老人ホームで働き始め、最初にぶつかるのが、利用者入居者の死だ。

どんなに一生懸命がんばって働きかけても、最終的には死をもってお別れするしかない。一般的に、介護労働は夜勤や排せつ介助、入浴介助で、肉体労働だと思われがちだが、実は死をいかに捉えるかという命題を常に突きつけられる精神労働なのだ。

その証拠にケアする側のケアが足らず、精神疾患にかかる率が高いのが数字で示されてている。しかし、私は短絡的に、心療内科にかかりなさいという政府の方針には賛成できない。自分自身で自分の生身の感覚で死を捉えることができる介護ケアという特権にあるのならば、それを十分に自分のものにして死を乗り越えなくてはならないと考える。

中央競馬 馬主(うまぬし)社会福祉財団が主催する。海外研修と言うのがある。

海外で研修するためにのお金を財団が出してくれるというのだ。

特養で働き始めて2年か3年でこの募集項目を見つけて、募集させてくれないかとその時の施設長、今の理事長に頼んだが、募集条件の5年以上の実務経験に満たなかったため諦めざるをえなかった。

1997年度の募集に応募することにした。

その前にスエーデンで看護師として働いていたホルムズ桂子さんの講演で、北欧では終末期になっても日本みたいに、点滴漬けには決してしないとの発言があり、どうしてそうなのか?実際に行ってその死生観の違いを確かめてみたいと思うところもあったからだ。

現在でもこの海外研修は規模を縮小しながらも継続してくれているようだ。

第一次選考は出願動機と自己紹介を文書にして提出。これが全国から集められ、選考にかけられる。二次選考は書類審査を通過したものが全国から50-60名ほど東京に集められ、英語の試験を受ける。英文解釈、英作文、ヒヤリング、そして最後に英語での口頭試問。最後に実際に行くメンバーが5-6人選考されまた東京に集められ二日間缶詰にされ、英語で研修での注意事項などの授業、訓練を受ける。

私以外のメンバーは渡航経験の多い人や帰国子女だった。セサミストリートを何パーセント理解できるかの質問に、私は約50%と答えたが、ほかの人は80%以上と答えた。

私は英語がペラペラしゃべれるのではない。私は簡単な英語に置き換えて自分の考えを説明できるだけだ。これは嫉妬からかもしれないが、重要なのは中身だと今でも思っている。

高校時代英会話部なんてふざけた部を立ち上げ、最寄りの駅の周辺で欧米人を捕まえては英語で話しかけていた辻という友達がいてわたしもそれに参加して遊んでいた。

だから、自分の英語で一生懸命に伝える快感を知っていた。彼は大阪教育大学に入って現在は、数か国語を操って創価大学の教授をしている。

 

今日はここまで、海外研修の内容は次回にまわします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

恋愛と哲学と青春の初体験:兄の死

2016年11月30日23:14兄が救急病棟のベッドの上で亡くなった。

夕方兄の携帯から息子の昌平から夕方に電話がかかった、兄が危篤で今大阪府立病院の救急病棟にいるから来てくれと矢継ぎ早に話された。

タクシーを携帯で呼んで、クレジットカードを握り締めて、ナビで大阪府立病院を指定した。大阪府立病院関係が3か所あり、私もなぜ救急病棟なのか不思議に思いながら、30分以上かけてたどり着いた。

案内されたベットの上で兄は既に下顎呼吸に入っていた。人工呼吸器、バルーン導尿、satに指を挟まれ呼吸運動で瞼が半分開いたままだった。

兄の瞼に指を添えながら、眼を閉じさせ、耳元に口を寄せ「兄貴きこえてるか?聞こえてたら、手を握り返してくれ」と囁いた。

まったく反応はなかった。

妻の姉が仕事が終わり別居している兄の元に行った際すでに、クローゼットの下にしりもちをついた形で倒れていたとのこと。

救急車を呼び、心臓マッサージ、人工呼吸、AEDと対応したが反応が良くなく、府立病院の救急病棟に運ばれたとのことだった。

直腸癌で、5年前に直腸摘出、ストマ造設の手術を受け、その後尾てい骨に癌の巣を発見し、余命が伸びるとの説明を受け抗がん剤治療をつい最近まで行っていたとのこと。

部落解放同盟 解放新聞 全国版 編集長がかれの肩書だ。わりとそのせかいではビックネームになる。

そんなことは関係なしに、私達3人兄弟にとって一男の兄は、頼りになるとても優しい兄だった。

スパルタの父が一か月出張で鎌倉に行っていたとき、兄が私達の勉強から遊びまで面倒を見てくれて、本当に楽しい時間だった。父の居ない空白感が少しあったが、むしろ、このままの時間がずっと続いてほしかった。

兄と私は6歳離れており、兄が高校3年の時?父に学生運動で、勘当され家から居なくなった。だから、私と兄はそんなに同じ時間を過ごしていない。

兄に憧れ、当時は進学校だった同じ高校に姉も私も進学した。

兄はそこで、ロゴス部を創設し有名だったらしい。

兄の下宿先に寄ったとき、猫を飼って、今の奥さんと同棲をしていた。それだけで、私の胸はドキドキした。

兄の大学を追うように、実家が堺に移って兄の書籍が部屋に運ばれてきて、レーニン全集が本棚に整然と並んだのを覚えている。兄は本の重みで、下宿先の床を抜いてしまったことがあったそうだ。

私はあにの本棚から、たくさんの本を読んだ。

兄が杉本町の団地に引っ越したときは、鉄骨を組んで、書庫を作っていた。

堺の実家を建て替えたときは、一階の大部分を可動式の書庫にしていた。私は、引っ越しの度に、段ボールで書籍を実家に送り付けてほんを処分していた。

亡くなるときに奥さんと別居していたのは、本と共に生活するために本に囲まれた家に一人で住んでいたためだ。

兄の使っていたipat airにはマルクス全集が購入されていた。

しかも最近読んだ跡があった。なんちゅうやっちゃと思う。

母校である桃山学院大学沖浦和光さんと家族ぐるみでの交流があり、沖浦さんが亡くなられ大変落ち込んでいた。

お通夜、告別式と2日間缶詰にされてへとへとになりながら、何度泣いただろう、家族葬、密葬にしたいとの妻である姉の意向に従いながらも、訪ねてくる、人、人の顔を見るたび兄とその人の交流が鮮明に思い浮かび、両親の葬儀以上に泣いてしまった。

姪の子供たちと深夜まで、棺の前で、兄の所有していた、アントニオ猪木さんの人生ゲームをした。彼、彼女たちにはいい思い出になるだろう。

彼のベッドルームには新日本プロレスのDVDが並べられてクラシックのCDがラックにこれでもかと納められていた。調査に来た刑事さんたちも、このほんの量はすごいですねと驚いていた。

阪急園田の駅に降り、家に帰ろうと上着のポッケトを探すも、家の鍵がない。

なんと慌てて、タクシーに乗ったので、鍵なしで出かけてしまっていた。

隣の大家さんに頼んで、鍵を貸してもらった。

ゆっくりとバブの炭酸ガス入浴剤を入れた湯船に浸かって疲れを癒した。精神的なそれも解けて行くようだった。

 

最後まで、お読みくださり、ありがとうございました。

恋愛と哲学と青春の初体験:衛生問題社2

標点の会で読んだのは、チャールズAライクの「緑色革命」だった。生活研究会の先輩から今頃そんなの読んでどうするん?とからかわれた。

さも言わん、大学のホーチミン広場に大学に無断で、レンガでかまどを作って、三里塚からワンパックの野菜を購入し、寸胴鍋に野菜をぶっこみ、そのかまどで、煮炊きしたものを昼食代わりに学生に売りつけていた。地でピッピーをかましていた先輩には、「緑色革命」なんて笑っちゃう!なんだと思った。彼は、私に、スーダン・ソンダクの「写真論」を読めと薦めてきたが、私は、関心がないと断った。

ちなみに、夏休み、龍太が実家に送り付けてきたびっしりと文字の撃ち込まれたハガキの中の「緑色革命」の言葉に、母が大学で何を学んでいるのと色めきだった。革命の字に反逆の意味を読み取ったかららしい。父は、そんな意味じゃなくて、農業革命だろうと母をいさめた。その一部始終を聞いていた姉は同じ教員の同僚に「ピッピー文化を賞賛したアメリカでベストセラーになった」本だと聞いていて自慢げに説明していた。私はその薄っぺらな説明にへきえきしながら、「そうだよ」と受け流した。

清水のタメからは、イバン・イリイチの「脱学校化社会」を諸橋君や、降矢君も入って読んだ気がする。イリイチの思想は衝撃的で、三橋ゼミでもその流れで、アウグスト・ボアールの「抑圧者の演劇」を英語の原書?で読んだ覚えがある。そのころ三橋さんがアメリカから1年間の海外研修から帰って来られ、私たちゼミ生に、演劇の手法を使った、ワークショップを身体で教えてくれていた。

これもちなみに、粉川哲夫さんがパフォーマンスと言う言葉を講義で説明していて学生間で、はやっていた。ほとんどシンクロしていた。時代はバブルに向かって行く?

「抑圧者の演劇」の英語はポストモダンのフランス語とはくらべものにならないほど、ストレートでぼっきらぼうで、私には物足りなかった。

河西君からは、週一回集まって何かを読んで、雑誌を刊行しようと誘われた。彼の誘いは、私にとって何よりも最優先だった。本江君も入れて、新宿のでっかい本屋で、デーブスペクターさんがファンにから駆られているのを横目に、SF図鑑を各自購入した。

わざわざ、新宿に寄ったのは、歌舞伎町でネクタイ販売といういかがわしいバイトを本江君がしているその様子をうかがいたかったからでもある。コマ劇場の横の一坪ぐらいの販売店だった。本江君はそこでバイトしながら、空いた時間を使って読書に励んでいた。私の憧れのR・Dレインさんの「引き裂かれた自己」やフィリップス・K・ディクの「ながれよわが涙、と警官は言った」を読んで、感想をよく聞かせてくれた。脳細胞が2つしか残っていない、という描写がおもしろくて、酔っぱらって「今私も脳細胞2つしか残ってなく、2ビットしかない」などと遊んでいた。

その3人で始めたのが「衛生問題社」だ。日曜日昼から集まって図鑑のSFの項目を土台にして話しを進める、それを録音して最終的に刊行する。夕食は私の一軒家の下宿の近くのスーパーで材料を買って作る。この一軒家は元々は新宿に引っ越す前の本江の下宿だった。夕食はだいたいカレーかハンバーグだった。本江も河西君も料理が得意だったので、私は大満足だった。その後皆で、風呂に入ったっけ?

「衛生問題社」って独特の名前は最終的に河西君が決めてくれた。例にもれず、半日かけて集まりの名前を決めようと話し合うが、かみ合わずくたびれた。河西君は、その後1時間近くかけて、ロゴまで作って柱にぴんで止め、玄関ドアにも止めた。

自分たちの精神衛生を考えようとの発想からこの名前がついた。

ゴットファザーじゃないけどファミリーの始まりのようだった。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。次回は具体的に私が身につけた哲学を語りたいと思います。よろしくお願いします。

恋愛と哲学と青春の初体験:衛生問題社

河西君の言ったとうり、大学生協の書籍売り場にもなく、さんざん探し回って、町田の本屋さんで、「リゾーム」を手に入れた。

「このひょうはくに書き込まれている万年筆の落書きの様な線が気になるんだ」と河西君は言った。

魅力的な詩の様な、ラグビーの試合経過を綴っているような文章が続くそれは、私にはとても理解不能で、哲学書には思えなかった。その頃の、フランスのポストモダンをまとめて解説してくれた浅田彰さんの「構造と力」を読んで、そういう事なのかと日本語の自分に落とし込んだ。しかし、粉川哲夫さんはその本を紹介しつつ批判した。

友人たちの間で、「逃走の線」が流行りになった。

河西君が「n-1」と言うのがわからないけど、「笠松はどう思う」と聞くので、あっているかかどうかわからないけど、縦横16ピースのナンバーを描いたパズルがあって、16の内のひとつを空白にすることで、バラバラの数字を動かして様々な順序に並べ替え、組み換えることができる。そんな仕組みを「n-1」と言っているんじゃないかなと答えた。

私は、「器官なき身体」ってでてくるけど、そんなものあるのか?と問いかけると、河西君は、「うまく説明できないけどなんとなくわかる」と答えたことを覚えている。

ドゥルーズ=ガタリのアンチオイディプスに関しては、facebookにも書かせてもらったが、松岡正剛さんの千夜千冊のアンチオイディプスの項目を参照にその雰囲気を味わってもらうのが、てっとり早いと思う。

最近、上野俊哉君のガタリの思想を描いたと言う本が河出書房新社から出た。「四つのエコロジー:フェリックス、ガタリの思想」も面白いかもしれない。

河西君と私が上記の会話をしていたころには、さすが、もう一人の同世代和光の天才上野君はあっさりと速攻理解していたように思う。

当時、私は複数の読書会や集まりに参加していた。はじめは、岸田プロゼミのメンバーで龍太が主宰で集まった「標点の会」だった。

学費値上げに反対する大学への公開質問状を作るのに、夕方からかかって、深夜まで、寄って集って、文章を作成した覚えがある。そのころから、伝統的に私たちは教授の研究室の鍵をコピーして勝手に使っていた。この公開質問状作成で学んだことは、文章は誰か一人が下書きをつくるか、徹頭徹尾、一人で書くのがいいと、へてへとになって学んだ。

上野君はいっこしたなので、翌年に無理やり構成メンバーになってもらったのをおぼえてる。河西君も晃久もこのころは仲間だったと思う。

タイトルの衛生問題社がまだ出てきていない。がいったん終わりにします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

恋愛と哲学と青春の初体験:そして三橋ゼミへ

私は、岸田秀さんに憧れて、和光大学に入学して、一緒に飲んで、龍太君と一緒に、世田谷のドーム状の屋根のある家に泊まらせてもらい、校内を歩いているところを雑誌の写真に載せられ、プロゼミは岸田ゼミで多くの友人を作った。「今度、フーコーと対談する」と言う彼に心底まいった。

私が今でも天才だと信じて止まない河西君に出会ったのは、柳田君が、この時間に家に帰るより、泊まれる友人の下宿先があるからと私を玉川学園前の彼のアパートメントに誘ってくれたからだ。その夜突然現れた私たちの宿泊を河西君はきっぱりと拒否した。

うなだれる柳田君が色んな理屈をつけて抗議するが、それに屈せず拒否する河西君の当たり前の主張に私が「彼の言っていることの方が正しい」と言って、柳田君は近くの実家に帰り、柿生駅まで小田急線の線路を歩いて帰ると外に出た私を、河西君は柳田君の犠牲者として私を引き留めた。

しかし私は歩きながら考えたいことがあるからと、玉川学園前から鶴川、柿生と電車の通らないだろう夜の二駅間、線路を歩いて帰った。

その時点で、私は河西君に惚れてしまっていたのだと思う。

あれほど明確に自己主張する人はこれまで見たことがなかったから。

河西君は三橋プロゼミの人で、三橋ゼミの構成メンバーのほとんどが、学費値上げに反対する新聞部、生活研の組織のメンバーだった。

三橋修さんも強面の人だった。

岸田さんと言う時の人がいるのに、どうしてわざわざ、あんなごっつい人達が先輩になる三橋プロゼミを選んでいるのか不思議に思った。

大学一年生でも本格的なゼミに参加することができる和光大学なので、私は速攻、三橋ゼミに顔を出した。

あの怖げな先輩達がどんなキレキッレの論議をしているのかと、戦々恐々で参加したのだが、なんだかもたもたよちよちと会話を積み重ねていた。

他のゼミに顔を出したことがあまりないので、比較はできないのだが、これが三橋流なのだと思う。

どんな意見でもその語りを尊重し決しておざなりにしない。丁寧に展開してゆく。本当にたまにだが、議論がもつれた場合に三橋さんがその絡み合った糸をほぐしてくれる、上手く補足してくれると言う安心感からか、学生たちはまだ思考から思想にまで形をなさない実感をぼそぼそと吐露できていたのだと思う。

河西君は三橋さんを香具師だと言った。

ものを考えるとは何か、どうするのかを教えてくれた、この三橋流は私にとって一生涯の宝物になりました。

当時講師で現象学を教えてくれていた、粉川哲夫さんから教えてもらったのだろう「リゾームドゥルーズ=ガタリ千のプラトーの序文)の長細い本をこれどう思う?と河西君が現物を私に示した。

「エピステーメの別冊だからもうあまり売ってないんだけど、買ったら」とコレクターらしい視点を踏まえて彼が推薦する。

 

そして三橋ゼミへ編 最後までお読みいただきありがとうございます。

やっと「リゾーム」が出現しました。