恋愛と哲学と初体験の青春:思索から哲学へ
今までは、私の世界を構成する外部女性やスピリチュアルとの接触の話しだったが、今回からは本編としての思索から哲学に移る過程を語ってみたい。
幼稚園卒園の際、図鑑を一冊頂いた。
ひかりのくに出版の生き物図鑑だったような気がする。
家に持って帰って夢中に読んだ覚えがある。
始めに恐竜の説明があり。身長7mの生物と書いてあって自分の家の部屋二つ分ぐらいか?と子供ごころながら興奮した。最大のなんんとかサウルスは全長25mとあり、想像を絶していた。
それから、虫の世界があり、虫の一生と言う円で構成されたイラストがあった。
卵から孵化、そして幼虫、成虫、産卵、そして死亡。
それを見て、生き物は何のために生きているのかと不思議に思った。
この円をぐるぐるなぞって回っているだけなんだと。1年草にしてもほとんどの虫や魚にしても、種や産卵とともに自分は死んでしまう。なんてむなしいことなんだとショックを受けた。
このころDNAと言う考え方は私にはなかった、あったとしても、自己中心的な遺伝子の存在をたぶん同じように、虚しく思ったのだろうと思う。
それから、林業、農業、医療のしくみなどが図解されていたのだと思う。
何度この本を開いただろうか?一日に二度も三度も開いては読んでいた覚えがある。
しまいには、ほとんど丸暗記してしまっていた。
しかし、なんのために生きているのだろうか?と言う虚しさはずっとつきまとって離れなかった。
高校になって南博先生の初歩の心理学を読んだ。自己防衛機能が心理にはあって、心の裏側が露骨に説明されていた。ちょうど太宰治も読んでいたこともあり、自分の汚さに耐えられなかった。
その心理学の本に生物には二つの本能があり、それに従って生きているのだと説明があった。自己保存の法則と種保存の法則だ。
卵を産むために自己を保存し、種族繁栄のために産卵し死んでゆく虫がこれで説明でき出ると考えた。
毎朝通学の電車のつり革につかまり、流れる窓の外を眺めながら、この二つの法則のことばかりを考えていた。
高校時代はだから、憂鬱だった。
高2か高3になって、現代思想かユリイカかかどちらかはわからなかったが、精神分析の岸田秀さんの文章を偶然目にすることになる。
そこにはこうあった。人間は本能が壊れていてだから幻想を共有し社会を作ってようやく生きているのだと。
私には、この考えが、本能に縛られたフロイトの解釈の束縛から解き放ってくれるように思えた。だからすぐに飛びついた。
大学は岸田さんの居る、和光大学にしようと決めた。
推薦入試の面談も偶然に岸田さんで、和気あいあいと大爆笑も何度もあって、大阪に帰りがてら、これは絶対受かったと思った。
哲学へ編 最後まで読んでいただきありがとうございます。次回は生の哲学に突入します。