恋愛と哲学と青春の初体験:衛生問題社2

標点の会で読んだのは、チャールズAライクの「緑色革命」だった。生活研究会の先輩から今頃そんなの読んでどうするん?とからかわれた。

さも言わん、大学のホーチミン広場に大学に無断で、レンガでかまどを作って、三里塚からワンパックの野菜を購入し、寸胴鍋に野菜をぶっこみ、そのかまどで、煮炊きしたものを昼食代わりに学生に売りつけていた。地でピッピーをかましていた先輩には、「緑色革命」なんて笑っちゃう!なんだと思った。彼は、私に、スーダン・ソンダクの「写真論」を読めと薦めてきたが、私は、関心がないと断った。

ちなみに、夏休み、龍太が実家に送り付けてきたびっしりと文字の撃ち込まれたハガキの中の「緑色革命」の言葉に、母が大学で何を学んでいるのと色めきだった。革命の字に反逆の意味を読み取ったかららしい。父は、そんな意味じゃなくて、農業革命だろうと母をいさめた。その一部始終を聞いていた姉は同じ教員の同僚に「ピッピー文化を賞賛したアメリカでベストセラーになった」本だと聞いていて自慢げに説明していた。私はその薄っぺらな説明にへきえきしながら、「そうだよ」と受け流した。

清水のタメからは、イバン・イリイチの「脱学校化社会」を諸橋君や、降矢君も入って読んだ気がする。イリイチの思想は衝撃的で、三橋ゼミでもその流れで、アウグスト・ボアールの「抑圧者の演劇」を英語の原書?で読んだ覚えがある。そのころ三橋さんがアメリカから1年間の海外研修から帰って来られ、私たちゼミ生に、演劇の手法を使った、ワークショップを身体で教えてくれていた。

これもちなみに、粉川哲夫さんがパフォーマンスと言う言葉を講義で説明していて学生間で、はやっていた。ほとんどシンクロしていた。時代はバブルに向かって行く?

「抑圧者の演劇」の英語はポストモダンのフランス語とはくらべものにならないほど、ストレートでぼっきらぼうで、私には物足りなかった。

河西君からは、週一回集まって何かを読んで、雑誌を刊行しようと誘われた。彼の誘いは、私にとって何よりも最優先だった。本江君も入れて、新宿のでっかい本屋で、デーブスペクターさんがファンにから駆られているのを横目に、SF図鑑を各自購入した。

わざわざ、新宿に寄ったのは、歌舞伎町でネクタイ販売といういかがわしいバイトを本江君がしているその様子をうかがいたかったからでもある。コマ劇場の横の一坪ぐらいの販売店だった。本江君はそこでバイトしながら、空いた時間を使って読書に励んでいた。私の憧れのR・Dレインさんの「引き裂かれた自己」やフィリップス・K・ディクの「ながれよわが涙、と警官は言った」を読んで、感想をよく聞かせてくれた。脳細胞が2つしか残っていない、という描写がおもしろくて、酔っぱらって「今私も脳細胞2つしか残ってなく、2ビットしかない」などと遊んでいた。

その3人で始めたのが「衛生問題社」だ。日曜日昼から集まって図鑑のSFの項目を土台にして話しを進める、それを録音して最終的に刊行する。夕食は私の一軒家の下宿の近くのスーパーで材料を買って作る。この一軒家は元々は新宿に引っ越す前の本江の下宿だった。夕食はだいたいカレーかハンバーグだった。本江も河西君も料理が得意だったので、私は大満足だった。その後皆で、風呂に入ったっけ?

「衛生問題社」って独特の名前は最終的に河西君が決めてくれた。例にもれず、半日かけて集まりの名前を決めようと話し合うが、かみ合わずくたびれた。河西君は、その後1時間近くかけて、ロゴまで作って柱にぴんで止め、玄関ドアにも止めた。

自分たちの精神衛生を考えようとの発想からこの名前がついた。

ゴットファザーじゃないけどファミリーの始まりのようだった。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。次回は具体的に私が身につけた哲学を語りたいと思います。よろしくお願いします。