恋愛と哲学と青春の初体験:兄の死
2016年11月30日23:14兄が救急病棟のベッドの上で亡くなった。
夕方兄の携帯から息子の昌平から夕方に電話がかかった、兄が危篤で今大阪府立病院の救急病棟にいるから来てくれと矢継ぎ早に話された。
タクシーを携帯で呼んで、クレジットカードを握り締めて、ナビで大阪府立病院を指定した。大阪府立病院関係が3か所あり、私もなぜ救急病棟なのか不思議に思いながら、30分以上かけてたどり着いた。
案内されたベットの上で兄は既に下顎呼吸に入っていた。人工呼吸器、バルーン導尿、satに指を挟まれ呼吸運動で瞼が半分開いたままだった。
兄の瞼に指を添えながら、眼を閉じさせ、耳元に口を寄せ「兄貴きこえてるか?聞こえてたら、手を握り返してくれ」と囁いた。
まったく反応はなかった。
妻の姉が仕事が終わり別居している兄の元に行った際すでに、クローゼットの下にしりもちをついた形で倒れていたとのこと。
救急車を呼び、心臓マッサージ、人工呼吸、AEDと対応したが反応が良くなく、府立病院の救急病棟に運ばれたとのことだった。
直腸癌で、5年前に直腸摘出、ストマ造設の手術を受け、その後尾てい骨に癌の巣を発見し、余命が伸びるとの説明を受け抗がん剤治療をつい最近まで行っていたとのこと。
部落解放同盟 解放新聞 全国版 編集長がかれの肩書だ。わりとそのせかいではビックネームになる。
そんなことは関係なしに、私達3人兄弟にとって一男の兄は、頼りになるとても優しい兄だった。
スパルタの父が一か月出張で鎌倉に行っていたとき、兄が私達の勉強から遊びまで面倒を見てくれて、本当に楽しい時間だった。父の居ない空白感が少しあったが、むしろ、このままの時間がずっと続いてほしかった。
兄と私は6歳離れており、兄が高校3年の時?父に学生運動で、勘当され家から居なくなった。だから、私と兄はそんなに同じ時間を過ごしていない。
兄に憧れ、当時は進学校だった同じ高校に姉も私も進学した。
兄はそこで、ロゴス部を創設し有名だったらしい。
兄の下宿先に寄ったとき、猫を飼って、今の奥さんと同棲をしていた。それだけで、私の胸はドキドキした。
兄の大学を追うように、実家が堺に移って兄の書籍が部屋に運ばれてきて、レーニン全集が本棚に整然と並んだのを覚えている。兄は本の重みで、下宿先の床を抜いてしまったことがあったそうだ。
私はあにの本棚から、たくさんの本を読んだ。
兄が杉本町の団地に引っ越したときは、鉄骨を組んで、書庫を作っていた。
堺の実家を建て替えたときは、一階の大部分を可動式の書庫にしていた。私は、引っ越しの度に、段ボールで書籍を実家に送り付けてほんを処分していた。
亡くなるときに奥さんと別居していたのは、本と共に生活するために本に囲まれた家に一人で住んでいたためだ。
兄の使っていたipat airにはマルクス全集が購入されていた。
しかも最近読んだ跡があった。なんちゅうやっちゃと思う。
母校である桃山学院大学の沖浦和光さんと家族ぐるみでの交流があり、沖浦さんが亡くなられ大変落ち込んでいた。
お通夜、告別式と2日間缶詰にされてへとへとになりながら、何度泣いただろう、家族葬、密葬にしたいとの妻である姉の意向に従いながらも、訪ねてくる、人、人の顔を見るたび兄とその人の交流が鮮明に思い浮かび、両親の葬儀以上に泣いてしまった。
姪の子供たちと深夜まで、棺の前で、兄の所有していた、アントニオ猪木さんの人生ゲームをした。彼、彼女たちにはいい思い出になるだろう。
彼のベッドルームには新日本プロレスのDVDが並べられてクラシックのCDがラックにこれでもかと納められていた。調査に来た刑事さんたちも、このほんの量はすごいですねと驚いていた。
阪急園田の駅に降り、家に帰ろうと上着のポッケトを探すも、家の鍵がない。
なんと慌てて、タクシーに乗ったので、鍵なしで出かけてしまっていた。
隣の大家さんに頼んで、鍵を貸してもらった。
ゆっくりとバブの炭酸ガス入浴剤を入れた湯船に浸かって疲れを癒した。精神的なそれも解けて行くようだった。
最後まで、お読みくださり、ありがとうございました。