恋愛と哲学と青春の初体験:般若心経
以下は2015年に私が独自に翻訳した般若心経です。
正確な訳ではなく、自分なりに筋が通るようにと考えて、訳した意訳になります。
空とは何なのか、空で苦を乗り越えるとはどういった理屈なのか、空だから最高の智慧である般若心経をえることができるとはどう言うことなのか?
毎朝、礼儀が悪いけども、トイレに座って、電動歯磨きしながら、どういう意味なのか?を考え続けて出した、答えです。
「 完成された智慧の真髄を説いた教え
智慧をもって遍く生きとし生けるものの因縁を観、救う働きが自在である菩薩様が、彼岸に至る智慧を行じておられた時、
五蘊(色:肉体や物質。受:感受されたもの。想:表象されたもの。行:意志。識:認識)は
全て『空』(実体がなく、我が無いこと)であると、智慧に照らし合わせ観て、悟られた。
そうすることで、一切の苦厄を、乗り越えた。
舎利子よ
色(物質的存在や現象)は、空(実体がないこと)と異ならない。
したがって、実体がないこととは、物質的存在や現象があることとも、異ならない。
色は直ちに空であり、空はすなわち色である。
(量子において粒子のふるまいと波動の振る舞いが交互にみえられるように、ソシュールの記号論において単語一つひとつの中身に実体はなく、他の単語との差異においてのみ、意味を反復するように)
続く受想行識も各々またかくの如く空である。
舎利子よ
因果縁起によって現象が成り立っているという、法則は、それが経験則(色受想行識したもの)から生成されたものだから、やはり、実体がないことになる。
だから、空の境地から説明すれば、経験則として新しい法則がブレイクスルーして生まれることや、パラダイム転換して滅することもなく、主観的なきれいや汚いも、客観的な増加や減少もなくなる。
段階を経るようにして、物質から感覚器、感覚と自我から形成される意識やその奥の前意識やさらにその奥の無意識の混乱や抑圧や抑えられない衝動のような、煩悩の根本にも実体はないことになる。
自と他の我がなく、区別もないことから、老いることや死ぬことの苦しみもなくなる。
したがって、苦しみから解脱するための方法である四諦(苦を分類し、苦のケースを集めて帰納し、苦の因果を滅し、解決する方法を演繹して実践する道)を行う必要もなくなる。
だから、その分別からの智慧も必要なく、そこから得られる悟りも必要ではない。
自我から離れ、大我の内に自我をおさめることができ、菩提(完全なる知)を求め、生きとし生けるものを救済しようとの志を持つ薩埵は、すでに完成された無分別の智慧に依るが故に、心にひっかかり妨げるものはなく、心にとどこうりやこだわりが無いが故に、執着がなく、そこから生じる恐怖も無くなる。
全ての顚倒夢想から離れ一切の煩悩が滅しつくされた涅槃の境地にたどりつく。
過去現在未来に出現する仏たちもこの分別による智慧ではなく、すでに完成された無分別の智慧によってこの上なく、正しく等しく目覚めることのできる悟りを得ることができたのだ。
故にして知るべし、般若波羅蜜多には不思議な功徳がそなわっている。
さあ唱えよ。
『ガーテー ガーテー パーラーガーテー パーラーソーガーテー ボディスヴァハー』
(越えよ、越えて行け、さらに越えよ、さらにさらに越えて行け、悟りあれ幸いあれ)
これが般若(智慧)の心経(核心の教え)だ 」
(未熟な意訳です2015笠松)
最初の空、我とは偶然に集約されただけの存在で、そこに執着することには意味がなく、むしろ苦をつくるだけだとする=最初の空を読み解くことができれば、後は、するすると訳が展開できました。
皆様もどうかご理解していただくとありがたく思います。
今日はここまで、
最後までお読みいただきありがとうございます。次回は私が実践している老人介護における哲学を展開したいと思います。